asamiXの毒親ダイアリー

人もうらやむ仲良し親子でした。 休日には、ショッピング・ランチ。 お洋服のシェア。 周りからは、若々しくステキな母と言われていました。 でも、本当は・・・ とても息苦しかったのです。

抱っこ???

小学校2年生くらいの頃に、伯母に男の子の赤ちゃんが生まれました。

親戚の集まりがあり 赤ちゃんとご対面しました。伯母に「触ってみる?」と聞かれましたが、赤ちゃんが叩かれたらツラいので「うん。いい」と遠慮しました。

この頃には 赤ちゃんを見たり触ったりすると 弟の事もありその赤ちゃんに危害が加えられると 学習していました。

 

しばらくして赤ちゃんが泣き始めました。すると伯母は「どうしたの?」と言って赤ちゃんを抱きあげました。私は度肝を抜かれました。抱っこはミルクを飲ませる時か 運搬時にするもだと思っていたからです。

伯母が抱っこをすると赤ちゃんは機嫌が良くなりました。怒鳴らなくても泣き止みました。

幼いながらも、私の思っていることはおかしいと その時感じました。

 

帰宅後 母親は早速伯母の行動を「泣いたぐらいで抱っこして甘やかしたら、ろくな子に育たない」とケチをつけ始めました。そして、自分の事を「厳しく育てたから言うことを聞く良い子に育て上げた」と自画自賛していました。

力でねじ伏せている支配をしているだけだと気が付いていません。

 

あれから半世紀近く経ちましたが、イトコは親や周りを気にかける優しいおじさんになり、弟は人と極力関わらないおじさんになり、私は親を捨てたおばさんになりました。

弟が生まれた話

桃の節句の頃に弟が生まれました。触ったことはありませんでしたが、ふわふわとしていてかわいかったです。

 

しかし、母親から接近禁止命令が出ました。弟に近づくなという事です。残念ですが、仕方ありません。

「え~ん。え~ん」と時々小さな声で泣いていました。すると「うるさい」と母親が怒鳴り声をあげました。怒鳴り声に慣れた4歳の私でも怖かったです。夢と希望を手に生まれたばかりの弟の恐怖は 計り知れません。

オムツ替えの時は、私に別の部屋へ行くように指示をしていました。耳を澄ませると 何かを叩いている音と か弱い弟の鳴き声がしていました。

 

母親の育児方針は、抱っこしない、極力目を合わせない、かまわない。何故なら、赤ちゃんの要求を満たしてあげると、要求がエスカレートするから要求は満たさない という事でした。この方法で娘を4年近く育ててきたという自信も持っていました。

 

ミルクを飲ませる時は抱っこをしていました。今思うと、それだけが救いでした。

 

ある時、あまりにも泣いているのでとても気になり ベビーベッドのそばへ行き様子をみました。「何をしているの。近づくなと言っているでしょう。おまけに目を見るなんて」と怒鳴られました。そして、いつも以上に弟を叩いていました。

それ以後、私も弟が泣くと気にはなりましたが、遠くから見るだけにしました。

 

セミの鳴く頃には、弟は泣かなくなりました。

母親の目を盗んでベビーベットのそばに行っても、じーと天井を見つめているだけで、私の方を見ることもなくなっていました。

 

赤ちゃん時代のアルバムには、表情のない私の写真があります。

私もこのように育てられたのだと思います。

 

 

ウサギの風船

保育園のバザーがあり、ウサギの風船を買ってもらいました。

本当は ヨーヨー釣りがしたかったのですが、アイコンタクトでダメを出され、アイコンタクトでうさぎの風船を買うように指示されました。

指示されるままに買ってもらいましたが、手にすると可愛く思いました。

 

不注意で風船を手放したお友達がいました。風船は 高く高く自由に空へ飛んでいきました。自由に飛んでいく風船がちょっとうらやましかったです。

 

しかし、可愛いと思った風船も残念な事に翌朝にはもうしぼんでいました。ずっと風船は大きなままだと思い込んでいただけに 残念な気持ちになり、「あー小さくなっている」と思わず声が出ました。すると、母親が飛んできて「小さくなるに決まっているでしょう。アンタがすぐにダメになる無駄な物を買ったのよ。どうせなら長持ちするものを買いなさい。」と怒鳴られました。怒鳴られて余計に悲しくなりしょんぼりしていると、母親は「邪魔!!」と言って風船を包丁で刺して割りました。

もう、悲しむ気力さえなくなりました。

『昨日お空へ飛ばしてあげたらよかった。そうしたら風船はおかあさんに刺されなかった。』そう思いました。

 

イベント会場などで風船を手に喜ぶ子ども達を見かけると、ゴムの破片になった風船を思い出します。

赤い風鈴

幼い頃 TVなどで夏祭りのシーンを観て 一度行ってみたいと思っていました。

小学校入学前の夏 親戚一家が私を夏祭りへ連れて行ってくれることになりました。

 

色々な夜店があり、そこは映像で観るよりも華やかで活気のある世界でした。

イトコたちは「あれ買って!」「これ食べたい!」などと楽しそうに言っていました。

私は、『連れてきてもらえて怒られないだけで、ありがたいのに親に好きな事を言っている。なんて贅沢なのだろう』と思いイトコ達を不思議な気持ちで眺めていました。

そんな私を気遣うかのように伯母は「欲しい物があったら言ってね」と言ってくれました。私にしてみれば、怒られないという極上の贅沢を味わっているのです。これ以上欲しい物はありませんでした。

 

風鈴をそれぞれが買うことになりました。

伯母は「あさみちゃん 好きなのを選んでね。」と言ってくれましたが私はとても困りました。何故なら 伯母はずっと私の顔を観ているのです。何を選べば伯母が喜ぶのか?何を選ばせたいのか分かりませんでした。

一瞬伯母が 赤い風鈴を見ました。『伯母さんが買わせたいのはコレだ』と私は思い

「赤いのがいい」と答えました。自分で選ぶという概念が私にはありませんでした。

 

母親と買い物に行くと口では「好きな物を選びなさい」と言っても 視線で選ぶものを指示してきていました。つまり、私には選択の自由がなく母親が選ばせたい物を自分の意志で選んだようにする必要がありました。

 

その赤い風鈴は購入後一週間ほどで破損しましたが、今でも楽しかった思い出として私の心の中で鳴っています。

伯母さんの家での出来事

弟の入院の為、同じくらいの同性のイトコのいる伯母の家に預けられました。

自分の家とは何もかも 違っていました。

殴られない。風呂に漬け込まれない。怒鳴られない。シバキ棒の孫の手もありませんでした。

 

保育園での出来事、観たTVの事、外遊びでの事、イトコたちは好きな事をしゃべっていました。親に忖度をして話題を考えているようでもなかったです。

食事の時も、

「ママ、これ大きすぎて食べられないから、切って」

「これ、おいしいからもっと食べたい」

「これ、嫌い。ちょっとにして」

「パパ、これ好きだから私にちょうだい」

などと、好き勝手なことを言っていました。自由すぎる発言にすごくビックリしました。

「あさみちゃん 遠慮しないで困っていることがあったら、言ってね。」

伯父と伯母は気を使ってくれましたが、私にとっては 怒られないだけで天国です。

 

「あさみちゃん 明日 お父さんが迎えに来てくれるよ。弟くんも元気になって退院したって。良かったね。」と伯母から告げられました。全然、良くありません。また、怒られる家に帰るかと思えば、うんざりしていました。

この伯母の家での滞在が、いつ迎えに来てくれるかわからない本当のお母さんを待ちながら毒母の元で暮らすよりも、他人の家で暮らす方が快適だという発見につながりました。

 

早く大きくなって 家を出たい!!

早く自由になりたい!!

 

未来への目標ができました。

伯母さんの笑顔が苦手だったわけ

どういう訳か、親戚の伯母さんの笑顔が苦手でした。他の人の笑顔は気にならないのに、その伯母さんの笑顔だけが苦手なのです。意地悪な方でもなく、むしろ優しい人なのですが・・・

 

4年ほど前にお会いした時、例の笑顔で

「元気だった?」

と話かけてくれました。次の瞬間 過去の思い出が蘇ったのです。

 

あれは、5歳くらいの時の事です。

弟の体調が悪く、その日は総合病院にいました。夕方 伯母がやってきて

「あさみちゃん、伯母ちゃんの家に行きましょうね。みんな待っているよ。」

と、突然言い出しました。伯母の手には私の小さな荷物がありました。伯母の家には年齢が同じくらいの同性のイトコがいます。楽しく過ごせるとは思いましたが、私は非常に困りました。もし、私が自宅を留守にしている間に本当のお母さんが迎えに来てくれたら、もう会えないかもしれないからです。

本当のお母さんは 私が伯母さんの家に行くことを しっているのだろうか? 

その事だけが心配でしたが、子どもの力ではどうすることもできません。私は、伯母について行きました。ビックリしたことに 伯母は駐車場まで私と手をつないでくれました。

 

この時 弟が入院したため母親は付き添いをしていました。入院の付き添いは仕方ありませんが、どうして一言「弟くんが入院するから 伯母さんの家でお泊りして待っていて」と言えなかったのでしょう。自分自身が母親を経験した今、この点が疑問です。やはり、私の事は透明な存在だったのでしょう。

 

伯母さんの笑顔を見るたびに、本当のお母さんとの出会いのチャンスを奪われたという 絶望感を思い出していたのだと思います。

その事に、半世紀近く経ってから気がつきました。

銀行口座開設 バレる

独身時代、一人暮らし(逃走)の資金として 親にバレないように銀行口座を開設しました。

口座開設をすると銀行員さんが、お礼の挨拶に自宅へ来てくれる時代でしたので、くれぐれも自宅へ来ないようにお願いをして銀行を後にしました。

しかし、後日お礼状が郵送されてきました。

銀行を変え支店を変え 何冊と作りました。でも、没収され続けました。

 

母親に口座開設がバレる→激怒される→取調べを受ける→通帳没収

 

当時は、会社へ出入りしている銀行員さんや郵便屋さんとのお付き合いで口座開設する事も実際ありましたので、取調べの際は「お付き合いで仕方なく作成した」と理由をでっちあげていました。

 

本当にお付き合いで通帳を作成しなくてはいけない時が来ました。

『もう 怒られる材料を作りたくない』

と思いながらも半ば業務命令という形で作成しました。

しかし、ありがたいことに作成された、キャッシュカードを会社へ持ってきてくれました。

自宅訪問もありませんでした。お礼状も郵送なしです!!

 

毎月5千円程度ですが、コツコツとその通帳へ預金しました。

本当はもっと入金したかったのですが、使途不明金としてごまかせるのは5千円程度でした。

 

しかし、ある日担当の銀行員さんが転勤されたとの事で、新しい方が自宅へ挨拶に来てくれました。

当然、母親は自分の許可をしていない行動を私がとったので大激怒!!

仕方ないので、通帳を献上しました。

 

実は、その銀行の通帳は2冊所有していました。

残高が10円の通帳を献上しましたので、コツコツ預金は無事でした!!

 

ネットバンキングなどが登場した今の世の中でも、親に口座が見つかって悩んでいる人もいると聞きます。

手口こそ変われども、毒親のお金・子どもへの執着は変わらないのですね。