asamiXの毒親ダイアリー

人もうらやむ仲良し親子でした。 休日には、ショッピング・ランチ。 お洋服のシェア。 周りからは、若々しくステキな母と言われていました。 でも、本当は・・・ とても息苦しかったのです。

迷子になってみた

母親はデパートが大好きでした。私という家来を引き連れ女王様のように振る舞い、店員さんの丁寧な接客に酔っているかのようでした。

買い物の間、私はニコニコとしながら直立不動でおとなしく待っていることを要求されました。幼い子供にとってそれは苦行でしかありませんでしたが、衣食住を提供してもらうには 耐えるしかありませんでした。

 

8歳くらいの頃 「お母さ~ん!!!!」と絶叫し泣きながら 親を探している年が同じくらいの子を見かけました。その子がなぜ、母親を泣きながら探しているのか 全く理解できませんでしたが、迷子になれば、しばらく母親と離れることができることに気が付きました。

 

早速実行しました。

一人で店内をウロウロしたり 自由な時間を過ごしました。まさに、パラダイスでした。

 

さすがに長時間迷子でいるのはマズイので しばらくして受付へ行って迷子になったことを話しました。(当時は 館内放送で”迷子のお知らせ”などと名前が読み上げられていました。)そして、私の名前が読み上げられ 母親がやってくるまでの間 受付の方や近くにいた店員さんにすごく親切にしていただきました。

 

これに味を占めた私は、その後もちょくちょく迷子になりました。

ある時、自分の名前ではなく、母親の名前と住所を館内放送してもらいました。

「✕✕町からお越しの〇〇様、お嬢様がお待ちでございます。」

これには、母親も真っ赤になって受付へやってきました。

 

後日、近所の方がその館内放送を聞いていたことが判明しました。

母親はカンカンになって 「恥をかかせた」と、私を怒鳴りつけましたが、私はしょんぼりした態度を見せつつも、母親に恥をかかせることができた達成感でいっぱいでした。

夏休みの憂鬱

夏休みが楽しいってどんなのだろう???

子ども時代から、想像していました。でも、それはドラマの中の話であって 私には全く関係のない話でした。

 

休みだからと言って 朝寝坊が許されたわけではありません。通常よりも1時間近くも早起きをさせられました。

朝は、洗濯・食事の後片付け・掃除の手伝い その手伝いの合間に勉強もしていました。つまり、午前中はほぼ、自分の時間はなかったのです。その間 専業主婦の母親は優雅に趣味を楽しんだりTVを観ていました。

 

小学校低学年の頃、朝10時くらいからアニメを放送していました。

私は「見せて欲しい」と頼みましたが、母親には「勉強をしていなさい」とだけ言われ 見せてはもらえませんでした。しかし”男の子だから・・・”という理由で弟は見せてもらえていました。

 

午後は多少の自由時間はありましたが、16時前には帰宅して洗濯物を取り込まなければなりませんでした。少しでも遅くなると「生地が太陽に焼けてダメになる」という理由で叱られました。また、取り込む順番も決まっていて1つでも間違うとシバキ倒されました。

 

「蝉がうるさいからイライラする」という理由で、孫の手やハエ叩きで よく叩かれました。

私という労働者がいるので 母親には夏休みがあったのです。

ストレス発散に殴る対象もいて、スッキリする事も出来たと思います。

 

9月になって学校が始まるといつも”ホッ”としました。

学校でも居場所はありませんでしたが、おとなしく目立たないようにしていると家に居るよりは災いは少なかったです。

 

大人になった今 改めて考えると 私に自由時間を与えて私が楽しむのが 母親は許せなかったのだと思います。

 

毎年、夏場は体が鉛のように重いです。何もする気になりません。今でも蝉の鳴き声を聞くと とても悲しい気持ちになります。

自分を褒めてあげたい

父親のことは苦手でしたが、時には距離を取ったりと、それなりに何とか付き合ってきました。

他界した今、分かり合えることも、誤解したままでもなく、何となく親子関係が終わったという感じです。

 

物心がついた頃から母親が嫌いでしたが、本当の母親が迎えに来るまでは、この人の言う通りにしないといけない、好きにならないといけない いや 好きになるのは無理でも好きなフリはしなくてはいけないと幼いながらも思っていました。


高校生の夏休み 戸籍を調べ本当の親だとわかり愕然としました。

優しい親の存在は フィクションの中の出来事だと思い知らされた気がしました。

これからは、頑張って好きになるように努力しなくてはいけないと思うようになりました。

ずっと自分が好きになるのが先か、相手に好きになってもらうのが先か、考えましたが答えは出ませんでしたが、「母親が好きだ。大好きだ。」「もっと好きになる努力をしなくてはいけない」と自分に言い聞かせて生きてきました。


この50年近くずっと好きになる努力、好きになってもらう努力をしてきました。
この努力は報われませんでしたが、半世紀も1つの目標に向かって努力できた自分を褒めて認めてあげたいと 今は思います。

仏壇の前で洗脳

子供時代 狭い仏間へ私たち姉弟を連れて行き仏壇の前に正座をさせて、よく説教をされました。特に、夏休みは多かったです。

 

母親「大人になって立派な研究者になってもノーベル賞をもらっても、大会社の社長になっても、立派な地位について家来をたくさん引き連れる身分になっても、総理大臣になろうと、偉いのはアンタ達ではない。アンタ達を生んだ母親が一番偉い。」

私たち「・・・はい」

母親「だから、母親を大切にすべきなの。親の言うことはちゃんとしっかり聞くこと。」

私たち「・・・はい」

 

全く納得はしていませんでしたが、ライフラインを怒らせないように、「はい」と言って機嫌をとっておくようにしていました。

 

つっこみどころ満載な発言をいつもしていた母親です。

生んだ人が一番偉いと言うが、一人では子供は作れない。協力者(父)は、大切にしなくてもいいのか?

母親のDNAをいただいたお陰なのか、私は崖っぷちのパートのおばさんだし、弟は左遷街道を歩いていて・・・ 

 

子供たちを自分の思い通りに出来るように育てようと、張り切って説教をしていましたが、狭い部屋に閉じ込めて、長々と説教を繰り返し聞かせ、自分が一番偉いと思わせる。

まさに洗脳の手口。

 

親には、威厳のある人間に接する態度、言葉遣いをしなさいと言われましたが、自分のやった事の責任逃れをする、面倒くさい事を放棄する、自分の後始末を人にさせるような人間を尊敬することは 難しいです。

 

せめて、自分の尻ぬぐいのできる人間になりたいと思う今日この頃です。

不登園児でした

保育園に通園していた頃、どうしても家から出ることができなくなりました。

外の世界は、強盗をする人・悪い子を誘拐する人がいるし、悪い子を食べるオバケもいるから・・・などと今思えば笑ってしまうような理由ですが、当時は真剣に悪い子を連れさる魔法使いがいると思い込んでいました。

 

現実の保育園生活もまわりのお友達ともなじめず、お友達もあまりいませんでした。

登園バックに母親のお気に入りのカエルのキーホルダーを付けていましたが、それが取れやすく何度か紛失しました。紛失するたびに叱られ、保育園には「他の子が盗んだ」などと母親がクレームを入れていました。保育園側も「キーホルダーを付けないで欲しい」と言っていましたが、母親は要望を無視し必ずキーホルダーを付けていました。

 

「他の子に取られないように ずっとカバンを見張っていなさい。」

と母親に命じられました。

保育園で自由に遊ぶことすら、かなわなくなったのです。

もともと少なかったお友達もいなくなりました。

保育園に行けば行くほど、孤独を味わいました。

 

家に居ても母親が怖いですが、外には魔物がいる。

保育園では、お友達がいない。

先生も助けてくれない。

家の中なら、母親から逃げればいいだけですから、そっちの方が楽だと幼いながらも判断し 不登園を選びました。

 

何故、登園できるようになったのか 外出できるようになったのかは 覚えていません。

 

小学校低学年くらいの頃、家よりも学校が安心できると感じたことを覚えています。

学校も居心地は悪かったですが、無事に登校さえすれば、帰宅するまでは安全の保証はありました。

 

耐える・我慢するしかない状況に、絶望的な気持ちで日々を送っていました。

お風呂が大嫌い。できれば、はいりたくないよう!!

子供が熱いシャワーで殺される事件を耳にします。

生活を便利にするために、気軽に汗を流すために、シャワーの開発者は作ったと思います。まさか、こんな事に利用されるとは思わなかったでしょう。残念な使われ方です。

毒親にとって、お風呂はリンチの定番の場所です。

 

昭和40年代 私の子供の頃は、シャワーなどなく、風呂の残り湯に漬け込まれるくらいで済みました。それでも、殺されるかもしれないという恐怖、恐ろしさは・・・この記憶がフラッシュバックしてきて以来 バスタブに入ることはできなくなりました。真冬でもシャワーのみですが、お風呂場と水に恐怖心をもっているので、シャワーだけでもシンドイです。パニックを起こすこともあります。

 

学生時代 「殺される。助けて!」と何度か水泳の授業中に叫び声をあげたことがあります。そのたびに 授業は中断。普段は木刀を振り回しているような(昭和ですね)強面の先生方になだめて頂いたりしました。

 

フラッシュバック以前から、映画やドラマで溺れるシーンを観ていたら過呼吸を起こしたりしていました。その時は、何故自分が過呼吸を起こしているのか理解できませんでした。

 

瞼を閉じると、バスタブに私を漬け込み快楽に満ちた顔をして蓋を閉める母親の顔が浮かびます。とても、楽しかったのだと思います。

以前、「アンタも子供殴ったら楽しいでしょ。殴っていたら楽しくなってやめられないのよねぇ」と同意を求められましたが、その時に、『あー やっぱりこの人は娯楽で私を殴っていたのだ』と納得しました。

 

その快楽の為にあなたが失った物は何でしょうね?

夏休みの工作

小学校1年生の時、”親子で工作をする”という厄介な宿題がありました。母親に一緒に作成をして欲しいと何度かお願いをしましたが、

母親「忙しいから、アンタの宿題なんか知らない」

といわれ続け仕方なく自分一人で作成しました。

ちなみに、母親は専業主婦で趣味の手芸をする 昼ドラを観る などの日々を過ごしていたので、子どもの宿題を一緒にする時間がなかったわけではないです。

 

なんとか一人で工作も完成させたある日、母親がすごい勢いで突進してきました。

母親「〇〇ちゃんママに聞いたけど、宿題の親子工作って何?」

私「もう一人で作ったよ。」

と、私が作った物を見せると 取り上げて踏みつけたのです。

母親「こんな粗末な工作持って行ったら お母さんが笑われるでしょ。なんでちゃんと作って下さいと言わないの?恥をかかせる気!!」

何度かお願いしましたよ。そのたびに却下されましたよ。と言いたかったのですが、ライフライン相手にそんなことを言うとまず、食事がストップされます。

私「ごめんなさい。お母さん忙しそうだから、自分だけで作りました。」

と心にもない謝罪をしました。

その謝罪に満足したのか 満面の笑みで

母親「じゃあ、今度の休みにお父さんと作りなさい」

とだけ言い残して去っていきました。

 

幼心にも母親は 私に労力は使わないと理解していました。

あの時、母親が踏みつけたのは 私の工作ではなく心。

ズタボロに踏みつけられた工作を眺めながら、本当に自分には守ってくれる人がいないと改めて思いました。